チェンマイ独居老人の華麗なる生活2379(元帥のチョロ)
老兵は死なず、 ただ消え去るのみ。
ダグラス・マッカーサー (連合国軍最高司令官)
@ チェンマイのコロナ新規感染(2021年9月24日)
チェンマイ県発表、 9月24日:84人。

死亡は1人、 死者累計40名。
2021年4月以降の感染者累計は8,186人。
チェンマイ県内コロナ新規感染者数の推移:
6月1日:6人 → 3 → 1 → 3 → 1 → 1 → 2 →
2 →1 → 1 → 6 → 1 → 4 → 1 → 0 → 1 → 1 →
1→ 2 → 3 → 3 → 2 → 1 → 7 → 10 → 1 → 6 →
4 → 4人 (30日)→
7月1日:6人 → 5 → 5 → 7 → 17 → 26 → 29 → 31 →
30 → 31 → 31 → 19 → 30 → 48 → 66 → 76 → 52 →
66→ 46 → 47 → 64 → 38 → 35 → 54 → 100 → 46 →
64 → 69 → 65 → 102 → 46(31日) →
8月1日:59 → 63 → 66 → 49 → 47 → 60 → 72 → 36
→ 34 → 52 → 65 → 62 → 62 → 62 → 41 → 53 → 34
→ 37人 → 41 → 51 → 35 → 36 → 27 → 16 → 16 →
36 → 48 → 49 → 31 → 34 → 27人(31日) →
9月1日:28人 → 22 → 27 → 24 → 14 → 27 → 38 →
26 → 57 → 38 → 33 → 62 → 96 → 54 → 92 → 126 →
42 → 44 → 48 → 76 → 25 → 123 → 59 → 84(24日)

84人のうち主なところは(グーグル翻訳使用)、
A. U. Strong systemとステープ区域で29人(35%)
B. Green Lake Hotel で8人。
ここでは昨日も8人の感染報告あり。
C.5人は他県からチェンマイに入境。
* *
ランプーン県は要注意。
9月5日:4人 → 34 → 72 → 52 → 23 → 40 → 26 → 91
→ 27 → 24 → 31 → 20 → 9 → 48 → 26 → 37 → 39 →
55 → 67 → 58人(24日)
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A 9月24日発表のタイのコロナ新規感染は12,697人。
死亡者132人
170人は刑務所内、 11人が海外からタイに入国した人。
8月1日:18,027 → 17,970 → 18,901 → 20,200
→ 20,920 → 21,379 → 21,838 → 19,983 →
19,603 → 19,843 → 21,038 → 22,782 → 23,418 →
22,086 → 21,157 → 20,128 → 20,515 → 20,902 →
19,851 → 20,571 → 19,014 → 17,491 → 17,165 →
18,417 → 18,501 → 18,702 →17,984 → 16,536 →
15,972 → 14,666人(31日) →
9月1日:14,802 → 14,956 → 14,653 → 15,942 →
15,452 → 13,988 → 13,821 → 14,176 → 16,031 →
14,403 →15,191 → 14,029 → 12,583 → 11,786 →
13,798 → 13,897 →14,555 → 14,109 → 13,576 →
12,709 → 10,919 → 11,252 → 13,256人 →
12,697人(24日)
感染者累計:1,537,310人、 死亡者累計:16,016人。
感染多数の地域は毎日同じでダークレッドゾーン。
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B 元帥の失禁。
トルーマン大統領は1945年8月13日、 ダグラス・マッカーサーを連合国軍最高司令官に任命した。

そして C-54輸送機バターン号でメルボルンを飛び立ったマッカーサーは同年8月30日午後2時5分、 神奈川県厚木飛行場に到着した。


日本に降り立ったマッカーサーは報道陣を前に、「メルボルンからその道は長かった」 と語るが、 それは美文と長広舌の彼らしくもない、 ごく短く散文的なものだった。
これには訳がある。
厚木には海軍航空隊第302海軍航空隊の司令官小園安名中将が徹底抗戦を宣言して陣取っており、 マッカーサーの搭乗機に体当たりをすると広言していた(厚木航空隊事件)。
8月19日に小園がマラリアで高熱が出て寝込んだのを見計らって8月22日、 高松宮宣仁親王が厚木まで出向いて、 残る航空隊の士官、将兵らを説得してようやく厚木飛行場は解放された。
しかし、解放された厚木飛行場の施設は破壊され、 滑走路上には燃え残っている航空機が散乱しているという惨状であった。
マッカーサーに先立ちアメリカ軍第11空挺師団の4,000人の兵士が厚木に乗り込み護衛しているとは言え、 つい先日まで徹底抗戦をとなえていた多数の敵兵が待ち受ける敵本土に、 わずかな軍勢で乗り込むのは危険という状況があったのだ。

* *
ジャーナリストの高山正之がコラムでこう書いている。
厚木のマッカーサー写真は全てタラップの右側から撮られている。
元帥の雄姿を翌日の新聞に載せるために、 日本の写真班も入れていた。
ところが現場で小さな異変があった。
米軍が報道陣を急ぎタラップ右側に移動させたという。
宮谷長吉というカメラマンはそれを無視し、 左側に居座って貴重な写真を撮ったのだ。

それはタラップから降りるマッカーサーの左側股間が濡れ滲みで変色している。 元帥は失禁していたのだ。

勝手な推測だが、 先遣隊の誰かがマッカーサーの失禁を目撃、 それを撮らせないように報道陣を移動させた。

当然、 宮谷カメラマンの違反も見つかったはず。
米側は全ての映像を徹夜で検閲、 翌日の新聞に左側から撮った元帥の写真が掲載されなかったのはそのせいだ。
しかしあの滲み写真は1枚だけ、奇跡的に検閲を逃れた。
(以上、 高山正之のコラム、 偏変見自在より引用)
進駐軍の時代、 いろんなことがあったのだ。
憲法公布の日(1941年11月3日)にGHQを出るマッカーサーを出迎える大群衆。
☟

第1生命本ビルから憲法公布式典を見る米兵。
☟

1947年(昭.22年7月4日)、 米国の独立記念日を祝う米軍閲兵式の後、 東京駅前、有楽町を通って帝国ホテル付近まで行進する進駐軍。

* *
パイプをくわえ、 堂々たる風貌のマッカーサーは ”マザコン” だったと言われている。
1922年、 42歳の時に結婚した最初の妻ルイーズは、 金持ちの娘で社交界の華だった。
マッカーサーの母親ともそりが合わず、 後に離婚。
1929年にマニラで混血の女優イザベルとの交際が始まったが、 マッカーサー49歳に対し、イザベルは当時16歳。
マッカーサーはマニラスタジアムで彼女に一目惚れ。
部下に命じて愛人にすることに成功、 自分では口説けなかったようだ。
イザベルとは後に破局、 そのとき彼女に脅かされ、 マッカーサーは和解金として15,000ドルを支払った。
この時、部下だったアイゼンハワー参謀総長副官と同じ副官のデービス大尉が代理人となり、 イザベル側と接触するなどして丸く収めた。

☝ イザベルとマッカーサー。
いい歳してマッカーサーは、 イザベルに熱烈なラブレター送っていたらしい。
今なら、 Lineでエロチックなチャットをやっていただろう。
尚、イザベルはその後もフィリピンに帰ることはなく、 ハリウッドで女優となったが成功せず。
その後も職を転々として1960年に自殺した(享年47)。
マッカーサーの再婚相手ジーンと初めて出会ったのは1935年(55歳の時)で、 公務でフィリピンに向かう船中だった。

☝ マッカーサー夫妻
随行していた彼の母親(82歳)もジーンを気に入ったのだが、 2人の結婚を見ることなく1935年11月、フィリピンに到着した直後に死亡。
マッカーサーの落ち込み方は相当なもので、 フィリピンでマッカーサーの副官をしていたアイゼンハワー(後の米大統領)はこう書いた。
「将軍の気持ちに何か月もの間、 影響を及ぼした」
生まれてこのかた、 マッカーサーの生涯は母親に影響されていた。

☝
母メアリーは言い続けた。
「偉大であれ、 偉大であれ、 偉大であれ」
”マザコン”・マッカサーが厚木に降り立ったのは、 母親の死後10年目。
そのとき強い味方の母親なし、 彼ひとりでの日本上陸。
神風特攻隊の飛行機が体当たりして来るのでは..との恐怖心もあったのだろう。
65歳の元帥はタラップで、 チョロっとオシッコを漏らした。
仕方がない、 当時(1945年)はまだ....
紙オムツがなかったから。
チェンマイって ホントいいですね!
<追記>

1951年4月19日、 ワシントンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任演説を行った。
19世紀末の兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用し、 この有名な言葉を発した。
「老兵は死なず、 ただ消え去るのみ」
マッカーサーは1964年4月5日死亡(享年84)
自らが指揮した日本復興の象徴的なイベントとなった東京オリンピックをマッカーサーが見ることはなかった。
彼の日本2000日は、 今も日本に強い影響を残している。
以上