2018年02月27日

独居老人の生活1124(#10とんでる女の今昔物語:女の幸せは?)


チェンマイ独居老人の華麗なる生活1124
            (#10とんでる女の今昔物語:女の幸せは?) 


   女が再婚するときは、
   先夫をひどく嫌っていたからである。

   男が再婚するときは、
   先妻を熱愛していたからである。

                             オスカー・ワイルド (イギリスの作家)



柳原 白蓮は1885年(明治18年)生まれ。 本名はY子(あきこ)。

大正から昭和時代にかけての美貌の歌人。
父は柳原前光伯爵で、 Y子は妾腹の子として生まれる。

叔母が大正天皇の生母である柳原愛子。
てことは、 Y子は大正天皇の従妹にあたる。


 最初の結婚は15歳の時。 
pict-北小路家時代、16歳のY子.jpg
   ☝ 16歳の時の柳原白蓮(Y子)。


相手は柳原家とは遠縁の子爵の子で、 7歳年上の北小路資武。

因みに彼は離婚後、 詐欺・恐喝罪で逮捕されている(昭和8年)。

     pict-北小路家資武.jpg
        ☝ 北小路資武。


Y子は13歳から通学していた華族女学校(現・学習院女子中等科)を中退、 16歳で長男を出産。

しかし暴力をふるったり女中に手を付ける夫には愛情も無く、 Y子の孤独感は深まるばかり。

結婚5年後に、 子供は残す条件で離婚が成立した。
Y子の子・北小路功光とは、 親子の情愛はなかったという。

功光は後に歌人として歌集を出しているが、 テーマは母柳原白蓮への愛憎が多い。

彼が81歳の時に受けた取材で、 功光は白蓮を 「あの女」 と呼んだほど。

白蓮の最初の息子・北小路功光は1989年に死亡(享年87)。

               
離婚のあとY子は、 東洋英和女学校に23歳で編入学し、 寄宿舎生活を送る。 
この頃、 佐佐木信綱主宰の短歌 「竹柏会」 に入門。

                * *

1911年(明治44年)、 Y子(当時25歳)は九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と結婚。

伝右衛門は51歳、 炭鉱労働者からの叩き上げで学問はなく、妻を亡くした直後であった。

当時、 「華族の令嬢が売物に出た」 と話題に.....


pict-1911年(明治44年)3月、伊藤伝右衛門と柳原Y子・結婚.jpg
    ☝ 伊藤伝右衛門と柳原Y子。


               * *


結婚後、 Y子は伊藤家の複雑な家族構成を思い知る。
妾との間にできた娘やら、 養嗣子とその弟等々がいた。

成金の夫伝右衛門は、 Y子への愛情はなかったようだ。
伊藤家は ”家柄”、 柳原家は ”カネ” を欲した政略結婚。

チェンマイの爺さんが若い女の柔肌を求め、 タイ人女性はカネを欲する構図に似ている。


伝右衛門は柳原家への金銭的援助を惜しまず、 Y子の言うことは何でも聞いてくれる。 彼女は贅沢三昧の生活を送った。

しかしそんな結婚生活でも心は満たされない。
懊悩・孤独の日々、 Y子はひたすら短歌に託す。
pict-飯塚市幸袋の旧伊藤伝右衛門邸。2階がY子の居室.jpg
                 ☝ 
    飯塚市の旧伊藤伝右衛門邸。 2階がY子の居室。


              * *


大正8年、 Y子(白蓮)が34歳の時に宮崎龍介と出会う。

龍介は7歳年下の27歳、 孫文を支援した宮崎滔天の長男。
東京帝国大学法科の3年に在籍し、 労働運動に打ち込んでいた。

Y子は福岡(現在の飯塚市)の生活から逃避したかったのか。
それは宮崎龍介への愛情に変わる。

1921年(大正10年)、 Y子は龍介の子を身籠った。
そして姦通罪のあったこの時代に命がけの駆け落ち。

これぞまさしく大正の ”とんでる女” と言えよう。

pict-柳原白蓮新聞.jpg
       ☝ 当時の報道。


Y子は夫に対し新聞紙上(大阪朝日)で公開絶縁状を出した。

 「私は金力を以て女性の人格的尊厳を無視する貴方に
  永久の袂別を告げます」

これが大スキャンダルに...世に言う白蓮事件である。 
Y子36歳、 龍介29歳であった。

pict-1921年(大正10年)10月、事件当時の柳原白蓮と宮崎龍介.jpg
    ☝ 大正10年、 事件当時の2人。


事件から4年後、 Y子は家族の身分を除籍され、 宮崎龍介と3度目の結婚を果たす。


つまりY子の過去2度の結婚は、 彼女の自己を無視した厭々。
股は開いてみせたが、 心は全く開いていなかった。

これじゃあ亭主は堪らない。  抱いてる女がマグロでは....

男同士の関係は、 ウマが合って初めて親しい交遊に進展。
男女の関係は、 肌が合ってこそ仲睦ましくなるもの。

Y子にとって生まれて初めて、 股も心も開いた相手、 その男が
宮崎龍介だったのだと思う。


              * *


その後Y子は、それまで経験した事のない経済的困窮に直面。

弁護士となっていた龍介は結核が再発して病床に伏し、 宮崎家には父滔天が残した莫大な借金があった。

Y子は小説を書き、 歌集を出版、 講演の依頼も引き受け、 龍介が病床の3年間、 Y子の筆一本で家計を支える。

尚、 龍介の18年に及んだ結核は1931年(昭和6年)頃に完治している。


  龍介との間には2人の子に恵まれる。
pict-1930年(昭和5年)、Y子、蕗苳、龍介、香織.jpg
                ☝ 
  左からY子、 蕗苳、 龍介、 香織。 (昭和5年)


早大生3年だった香織は学徒出陣し、 鹿児島で空襲に遭い戦死(享年23)。  1945年のこと、 終戦のわずか4日前であった。


長女・宮崎蕗苳(ふき)は華道家に.....
息子(宮崎黄石)と共に柳原白蓮に関する活動もやっている。

    pict-柳原白蓮の子供たち2.jpg
        ☝ 白蓮の娘・蕗苳とその息子。

              * *


戦後の白蓮は 「悲母の会」を結成(昭和21年)、 平和運動家として情熱を傾ける。

更にこの 「悲母の会」 を世界連邦運動婦人部へと発展させた。

白蓮が68歳の1953年(昭和28年)、 世界連邦婦人部部長としての講演会で、 出奔事件以来32年ぶりに九州・福岡の地を訪れている。


白蓮は76歳の頃、 緑内障で徐々に視力を失う。
晩年は、 夫・龍介の介護のもと、 娘夫婦に見守られ、 歌を詠みつつ暮らした平穏な日々だった。

               * *

龍介は白蓮の死後、 『文藝春秋』 に回顧録 「柳原白蓮との半世紀」 を寄稿(1967年)。

Y子について以下のように述べている。

「私のところへ来てどれだけ私が幸福にしてやれたか、 それほど自信があるわけではありませんが、 少なくとも私は、 伊藤や柳原の人々よりはY子の個性を理解し、 援助してやることが出来たと思っています。

波瀾にとんだ風雪の前半生をくぐり抜けて、 最後は私のところに心安らかな場所を見つけたのだ、と思っています」


pict-柳原白蓮.jpg
    ☝ 若かりし頃の美しい柳原白蓮。
      

当時では珍しい離婚歴2度の姉さん女房・白蓮を最後まで支えた宮崎龍介、 男気のある人物だったと思う。

華族の家柄と炭鉱王の妻、 そんな身分や巨大な富を捨て、 恋を貫いた柳原白蓮。

そこで初めて、 真の幸せを勝ち得たといえるだろう。


pict-柳原白蓮老人.jpg
    ☝ 幸せな晩年を送る柳原白蓮。
      美女も年とりゃみな婆さん。


”とんでる女” の生涯は波乱万丈、 しかし終焉を迎える。

白蓮事件から46年後、 白蓮は1967年(昭和42年)2月、 心臓衰弱のため西池袋の自宅で死去(享年81)。 

その4年後の1971年(昭和46年)、 宮崎龍介は心筋梗塞で白蓮の後を追う(享年78)。



乏しい年金生活者のジジイは、 声を大にしてチェンマイの女性に
言いたい。


世の中、 カネだけじゃないぞ!



一番大切なこと....それは愛なんだ。










どの女も耳を貸さネー。  爺さんはカネだけか。


チェンマイって ホントいいですね!




posted by チェンマイ華麗なる独居老人 at 12:13| Comment(8) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする